寝言

父と三鷹オスカー。

 昨年11月末に父が永眠した。数年前から動脈瘤を患っていたのだが、長年の喫煙から併発した肺気腫のために麻酔が掛けられず手術が出来なかった。そのため食事と生活全般に気をつけて過ごして、このところは体重も増えていた。だから、まだしばらくは大丈夫だと思っていたのに、あっさりと逝ってしまった。動脈瘤は破裂すると悶絶する痛みがあるそうだが、幸いにもそれはなかったのが救いだった。

 父についてあれこれ思い返しているうちに、父が“三鷹オスカー”を始めた歳と今の自分が同年齢であることに気がついた。それまでは東映映画の封切館だった“三鷹東映”を、父が三本立ての名画座として再出発させたのは1977年だった(“三鷹オスカー”に改名したのは翌1978年)。大ヒットを記録した『仁義なき戦い』をはじめとした実録ヤクザ映画作品群や、菅原文太、愛川欽也主演で人気となった『トラック野郎』シリーズも飽きられて東映映画では続けていけなくなっての決断だった。名画座に変更した当初の入場料金は一般500円だった。それまでは1000円以上の入場料金(当時は一般1300円?)だったのに、いきなり一般500円に下げたので本当にやっていけるのかどうか非常に不安だったと数年前になって父から聞かされた。しかし、結果としては成功でその後1990年まで続く良心的名画座のイメージを決定づけた。父はその時、47歳だった。  さて、父が逝ったときに私は47歳、昨年末に48歳になった。父はホラー映画が苦手だったし、映画監督という職業に対して懐疑的だった。私は父の意志に反して現在に至ったようなものだ。そんな親不孝者の私でも今までに大きな決断を強いられたことはあった。そして、今後も同様の局面に立たされることはあるだろう。だが、そんな時は50を手前にして“三鷹オスカー”を始めた父の姿を見習って生き抜いていきたい。今はそう思っている。

 

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“三鷹オスカー”最後のチラシ。原稿は兄が書いていた。

▲ “三鷹オスカー”最後のチラシ。原稿は兄が書いていた。