鶴田法男が「Jホラーの父」と呼ばれている理由。
私がなぜ「Jホラーの父」と呼ばれているのかを自ら説明すると安っぽくなるから止めておけ、と所属事務所の人間に忠告されることがあります。
ですが、「『リング』の3作目の監督なのになぜ?」、「『リング』がヒットした後にTV『ほん怖』が始まったのになぜ?」と、素朴な疑問を投げかけられる事がたまにあるので簡単に説明をしておきます。
1991~92年にビデオ専用映画『ほんとにあった怖い話』シリーズを私が企画立案から手がけて監督をして発売しました。
その中に写真のような「黒い服の男」や「赤い服の女」という幽霊を登場させました。
自分が子供の時に見た幽霊を再現するつもりで撮ったのですけど、これがどうやら大変に画期的だったのです。
当時は、もう一つの写真のように「幽霊=お岩さん」が一般的でしたし、「ホラー=内臓や血が噴き出すスプラッタホラー」でした。
しかし、私のビデオ『ほん怖』シリーズは「恐い顔の幽霊」も、「内蔵や血しぶきが飛ぶシーン」も全く無いのに「とても怖い」と当時、全国に1万軒以上あったレンタルビデオ店で大変な人気を博しました。
「Jホラー」という言葉がまだ無かったので、「心霊写真テイスト・ホラー」とか「心霊ホラー」とか呼ばれていましたね。
その後、同様のホラーを作って欲しいとビデオ会社から連絡をもらい何本か心霊写真テイスト・ホラーを撮っていましたところ、1996年に『女優霊』という作品が公開されて評判になり、1998年に同じ監督、脚本家コンビの『リング』が大ヒットして社会現象になったわけです。
この2作を見た私は「あれれ? 自分がビデオ作品で細々とやってきた演出とそっくりだぞ!」とショックを受けたわけです。
しかし、脚本の高橋洋氏も中田秀夫監督も「鶴田作品に影響を受けた」と公言してくれたので、胸をなで下ろした次第でした。
しかも、『リング』の3作目を中田秀夫監督が撮らないので、私に任せるというありがたいお話も頂いたわけです。
その頃、1997年にサイコ・ホラー『CURE』を発表して世界に衝撃を与えた黒沢清監督も、ビデオ『ほん怖』が発売された初期の頃から事あるごとに賞賛してくださっていたので大変にありがたかったです。
それら諸々の評価から『リング』3作目以外のホラー映画の企画のオファーも頂きました。
しかし、私が取り組んできた「心霊写真テイスト・ホラー」ではなくて、「スプラッタ・ホラー」だったり、明らかに『リング』の二番煎じ的内容だったりしました。
黒沢監督、中田監督、高橋洋さんらがあれだけ褒めてくれているのに、自分は否定してきたスプラッタ・ホラーや、明らかに『リング』の二番煎じを作ったらダメだろう、と考えすぎるほどに考え込んでしまいましたね。もの凄いプレッシャーが襲ってきたりもしていましたね。
『ほん怖』をテレビ化するというのは、元々は『ほん怖』映画版を作りたかったからなのですが、一方で『リング』のような優れた心霊ホラーが出来てしまった中に戦いを挑むのは相当にしんどいという思いもありました。
ですから、映画ではなくてテレビという別の舞台で頑張ってみようと胸の内で計算していたところはあった気がします。
そして、フジテレビ『ほん怖』は1999年夏に稲垣吾郎さん、黒木瞳さん、池脇千鶴さんら豪華キャストの単発オムニバスドラマとして放映。そして、企画段階では『リング3』と呼ばれていた映画は『リング0 ~バースデイ~』のタイトルで2000年正月第二弾で東宝公開。
長くなりましたけど、そんな流れがあるので「Jホラーの父」と呼ばれています。
2009年、フジテレビ『ほん怖』10周年時の特設サイトに、ビデオ『ほん怖』とフジテレビ『ほん怖』企画時の詳細を記してあります。↓
http://www.howrah.co.jp/tsuruta/honkowa_kaisohroku/index.html