寝言

実はサラリーマンでした。

▲ 『クエスト/伝説の冒険』のジャケット。この作品のヒットがなければ自分は映画監督になっていなかったかも知れない。

▲ 『クエスト/伝説の冒険』のジャケット。この作品のヒットがなければ自分は映画監督になっていなかったかも知れない。

 映画館の息子という前項を読んで、私が映画監督にすんなりなったと思われた方もいらっしゃったようだが、実際はそうではなかった。元々は普通にサラリーマンとして働いていた。つまり私は脱サラ映画監督なのである。
 普通に会社勤めをしていた理由は、私が映画監督に興味を示せば映画界をよく知る両親が常に反対したのと、人並みの生活ができない映画監督が実際に居ることを私も見聞きしていたからだ。映画監督という仕事はヤバイ、やっちゃいけないと自分の心に自ら歯止めをかけていたのだ。そんなわけで大学卒業後の1985年、FUNAIブランドで知られる船井電機のビデオソフト発売会社に就職して「制作宣伝」の仕事をしていた。「制作宣伝」とは、作品のポスターやチラシを作ったり、ビデオ・ジャケット(まだDVDは無かった)を作ったり、またその作品の宣伝をする仕事。当時担当した作品の中にはジョン・カーペンター監督の処女長編作『ダーク・スター』などもあった。監督にはほど遠い仕事だが映画に少しでもかかわれることが嬉しくて、それなりにやりがいを感じていた。

 そんな仕事にも慣れた二年目のこと。会社が海外から買い付けてきた作品群の中に『E.T.』のヘンリー・トーマスが主演するオーストラリアのSFファンタジー映画があった。私はそれが戦略次第でヒットすると直感して、通常の倍以上の宣伝期間と予算を要求して渋る会社を強引に説き伏せたのである。

▲ 『ハーツ・アンド・マインズ/真実のプラトーン』。『クエスト』と同時期に発売した作品。1974年度のアカデミー賞ドキュメンタリー長編賞を受賞したベトナム戦争記録映画。これも私がFUNAIに無理を言ってビデオ発売させた作品。ヒットはしなかったが、この名作をリリースしたことは『クエスト』のヒットと並んで私の自慢だった。

▲ 『ハーツ・アンド・マインズ/真実のプラトーン』。『クエスト』と同時期に発売した作品。1974年度のアカデミー賞ドキュメンタリー長編賞を受賞したベトナム戦争記録映画。これも私がFUNAIに無理を言ってビデオ発売させた作品。ヒットはしなかったが、この名作をリリースしたことは『クエスト』のヒットと並んで私の自慢だった。


『クエスト/伝説の冒険』とタイトルも私が命名したその作品は3千本売れればヒットだった時代に、結果として1万本を出荷する大ヒットになった。こうなると人間はあらぬ自信を持ち、夢を追いかけても大丈夫な気になる。監督は無理でも社員プロデューサーならば生活に窮する心配もないと考えて会社に映画製作を提案したが、リスクの高い投資である映画製作に会社は見向きもしない。しかし私は前述の成功で天狗になっていた。こんなケチな会社にくすぶっている必要は無いと辞めてしまったのである。その後、ギャガ・コミュニケーションズという会社に就職したが、そこも自分の思惑通りの仕事が出来ないとなるとすぐに退職。それからは自分の心にかけていた歯止めはすっかり外れてしまい、作品作りを目指して夢中になっていったのである。全く若気の至りだった。
 むろん、夢を実現するために邁進するのは悪いことではないし、むしろ素晴らしいことだと思う。しかし私の場合、会社員でいた頃が80年代後半の“バブル景気”真っ盛りで、自分の能力だけで仕事が成功したわけではなかったのに、その事に全く気づかなかったのだ。私がフリーの監督になった途端にバブル景気が崩壊。以後、厳しい現実に直面し自分の浅はかさを何度も呪うことになった。
 とは言っても、当時を振り返って後悔することはない。あの時の後先を考えない行動がなければ現在の自分はなかったからだ。ただ今は心の歯止めを再びかけて自分が暴走しないようにしている、つもりではある。