寝言

75年目の終戦記念日。1932年製作、映画『忠魂肉弾三勇士』についての祖父の話を思い出す。

終戦記念日の今日、旧・大映の前前身の河合映画社に勤めていた祖父が生前よく話していた「爆弾三勇士」の映画のことをふと思い出した。

昭和初期、一攫千金を夢見て茨城の田舎から出てきた祖父は土木建築業で財をなした河合徳三郎氏の会社に入社。

河合組は、当時、隆盛を極めていた映画業界に進出して河合映画製作社を設立し、祖父はそこで仕事をすることになった。

1932年2月22日、第一次上海事変で敵陣の鉄条網を三名の工兵が自らの命を投げ捨てて爆弾で吹き飛ばして、突破口を開いたことで日本軍が前進できたということが「爆弾三勇士」、「肉弾三勇士」という文言で新聞、ラジオで大々的に報じられた。

映像メディアは映画しか無い時代なので、各映画会社がこぞって映画化に取り組んだ。その中でも「いち早く公開したのが、河合映画社だったんだ」と祖父は生前、自慢げに話をしていた。

それをふと思い出したので、「爆弾三勇士」で検索をしたらWikipediaに6本の映画が作られたことが記されていた。公開日順に並べてみる。
https://ja.wikipedia.org/…/%E7%88%86%E5%BC%BE%E4%B8%89%E5%8…

●3月3日公開
『肉弾三勇士』(新興キネマ)、
『忠魂肉弾三勇士』(河合映画)
『昭和の軍神 爆弾三勇士』(赤澤映画)。

●3月6日公開
『忠烈肉弾三勇士』(東活映画)

●3月10日公開
『誉れもたかし 爆弾三勇士』(日活)

●3月17日
『昭和軍神 肉弾三勇士』(福井映画)

事が起きてから10日足らずの公開で驚くが、どの映画も尺は20~30分程度だったらしいし、当時の主流は音の無いサイレント映画だったので仕上げ作業の時間も短くてすんだのだろうと思う。

「いち早く」と聞いて、私はてっきり一番最初に公開したのかと思っていたけど、これをみると新興キネマと赤澤映画が競合している。弱冠、話を盛っていたのだろうと50年近くたって気づいた。

河合映画社はその後、大都映画となり、大都映画が日活の製作部門と新興キネマと合併して戦時中に「大映」が誕生。祖父はその設立時のメンバーで重役の座に就いたが、戦後の「レッドパージ」で失職。しかし、永田雅一社長に何度も頭を下げて大映の元の地位に復帰したと聞いている。

子供の頃は祖父の話がうっとうしくてまともに耳を傾けなかったのが、今になって悔やまれる。

私がテレビで放映される戦時の記録フィルムなどを見ていると、「そんなものを見るのは止めようや」とテレビのチャンネルを変えてしまう人だった。

戦争の記憶が辛かったし、孫に見せたくなかったのだろう。

しかし、「爆弾三勇士」についてのこの新聞記事を読むと、祖父は軍国主義のまっただ中で、「自爆」を美化するイメージ戦略に加担していたわけだから、それもひどく切なくなる。

現在上映中の太田隆文監督『ドキュメンタリー 沖縄戦』を見ると、当時はお国のために死ぬことが尊ばれていたので、多くの国民がそこに疑問を持たなかったという証言を聞いた。国を挙げての、その洗脳やマインドコントロールが恐ろしい

75年目の終戦記念日に、戦争の無い平和が続くことを祈るばかり。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609845/