寝言

70年代、大映が倒産し鶴田家は苦境に。親に反対された監督業を始めてしまい心配ばかりかけた人生。

家の近くのTSUTAYAの前を通り思わずパチリ。
90年代中頃は自宅周囲に5軒のレンタルビデオ店がありましたが、今はこのTSUTAYAのみに。しかも、私自身、半年くらい利用してないです。ディスクは買ってばかりでレンタルをしなくなりました。

ところで、今月20日は母親の4回目の命日でした。
高校生の時に夏休みの間に30本映画を見たと学校で自慢したら、それが母親の耳に入りこっぴどく怒られたことを思い出します。

なにしろ70年代の映画産業はテレビに押されて斜陽産業の代名詞で、大映に依存していた鶴田家は会社の倒産でとても苦労したので、息子が映画に興味を持つことは避けて欲しいことだったので仕方の無いことでした。

ところが、80年代初頭に本格的になり始めたレンタルビデオ産業のおかげで、私は大阪、船井電機の興したビデオソフト販売会社に入社できて、超多忙な毎日を送ることになりました。会社の中で映画談義をしてたら、それが商売に繋がり、しかもかなりの利益を生んでしまうという今では信じられない世界でした。

レンタルビデオ店が雨後の竹の子のごとく町中に出現して右肩上がりの産業で、母親も息子が良い業界、良い会社に就職できたと安心したようでした。

しかし、私は若気の至りで会社を辞めて、子供の頃から興味があった監督業を始めてしまい、結局、母親を心配させることになりました。

企画から立ち上げたOV『ほん怖』で監督デビューしたのが1991年、その8年後にフジテレビ『ほん怖』がゴールデンタイムで放映され、その翌年2000年には角川映画『リング0』が東宝全国公開。
その時に、母親が「よく頑張ったね!」と言ってくれてホッとしました。

しかし、実際には『リング0』の初日を迎えた後に、「法男も引くに引けないところに来てしまったな」と諦めたように言う父親の言葉に頷いていたと私の妻から後で聞かされて、胸が痛んだものでした。

父親も長いこと映画業界で働いてきて監督業の厳しさを熟知してましたから、仕方の無いことです。

ただし、その父親も新宿バルト9での完成披露試写『おろち』を観た後は嬉しそうにしておりました。その後すぐに旅立ちましたけど、私の仕事のことを一応は認めてくれたと思うし、映画関係の仕事をしてきた父親に少しは親孝行が出来たとも思っております。

今やビデオソフト産業はかなり厳しい状況になり船井電機に限らず様々な大手企業がビデオソフト事業から撤退、自宅周囲にあった個人営業のレンタル店は壊滅し、全国的にもTSUTAYAが次々に閉店、GEOも中古スマホ店として売上を伸ばすという状況。

一方、私は気力と体力と運があれば死ぬまで働ける環境ではあるので、両親共々、「そこそこ頑張ってるじゃないか」とあっちから見てくれている気がしています。

湿っぽい事を記して失礼しました。
とにかく、両親にあらためて感謝です。
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