寝言

1994年、初めてお会いした黒沢清監督に「お目にかかれて光栄です」と言われてキョトンとして……。

明日(12日)19:50~シネマカリテ『戦慄のリンク』上映後は、黒沢清×鶴田法男トークショー開催です。黒沢監督と初めてお会いしたのは「東京ファンタ94」の『マウス・オブ・マッドネス』上映の時でした。ジョン・カーペンターのファンジンを発行する映画感想家、鷲巣義明氏に声を掛けてもらって、黒沢監督とご一緒に登壇することになったのでした。

今は無き渋谷パンテオンの控え室で『ドレミファ娘の血が騒ぐ』、『スウィートホーム』、『地獄の警備員』等で既に評価を得ていた黒沢監督にはじめてご挨拶をしました。一方、私はOV『ほんとにあった怖い話』シリーズ3作と『ゴト師株式会社』シリーズ2作の実績しか無かったわけです。それなのに、黒沢監督に「お目にかかれて光栄です」と言われてキョトンとしてしまったのをよく覚えています。

当時は篠崎誠監督とは多少お付き合いがありましたが、高橋洋さんとは顔見知り程度でしたし、私が企画から立ち上げて1991~92年に発売したたOV『ほんとにあった怖い話』シリーズが立教大学や早稲田大学出身の若き映画作家の皆さんに、そんなに高く評価されているとは認識していなかったのでした。

しかし、その後、黒沢監督が事あるごとにOV『ほんとにあった怖い話』を雑誌などで賞賛してくださるのを目にしたので、これは本気で評価してくれていると実感。

そして、1996年の事。平成『ガメラ』シリーズの大映の土川勉プロデューサーが、つのだじろう先生の『亡霊学級』のビデオ映画化企画にGOサインを出してくれて監督する事になったわけです。
土川さんは後に『CURE』もプロデュースされた関係もあったので、『亡霊学級』の「大学助教授役」で黒沢監督に思い切って電話を入れたところ、黒沢監督は二つ返事で出演を快諾してくださったわけです。(『亡霊学級』DVD化希望)

余談ですが、『亡霊学級』の準備中に土川プロデューサーから『伝道師』という題名のオリジナル脚本を渡されて、「読んだら必ず返却して欲しいけど、感想を聞かせてくれないか?」とおっしゃるので、早速読み始めたら画期的な凄いサスペンス・スリラーで、翌日、「これ、絶対に映画化すべきですよ」と返却した次第。それが後の『CURE』になったわけですが、その時は、土川さんも不安があったのでしょうね。私に限らず色々な方に密かに吟味してもらっていたのでしょう。

さて、『亡霊学級』は無事に発売。当時「DVD&ビデオでーた」がやっていた「年間ベストテン」の「オリジナルビデオ部門第一位」に輝くなどの評価を得ました。しかしその後、私は仕事上で大失敗をして監督業を引退。そして小さな洋画系映画会社に就職して、ビデオソフト発売業務や宣伝の仕事をして生涯を終えるつもりで働いておりました。

日本映画には縁が無くなったので、1997年末に黒沢監督の名を世界に知らしめた『CURE』が公開された時は、『伝道師』が映画化されて良かったと嬉しく思っただけでした。更に、1998年初頭に中田秀夫監督、高橋洋脚本『リング』が予想外の大ヒットになったけど、自分には関係ないと思っておりました。

ところが、監督業を引退して平凡な会社員生活をしていた自分の所に大手映像関連会社から連絡が来るようになり、「なぜ、引退した監督に連絡をくれるんですか?」と尋ねたら、黒沢監督ほか皆さんが「鶴田法男作品に影響受けた」という発言で低予算OVホラーを撮り続けていた私の存在を知ったというのです。

私のOV『ほん怖』ほかの作品はレンタル屋に行けばいつでも観られるのに、その大手映像関連会社の人達は「今まで存じ上げず失礼しました」みたいな事を言って謝ってくれましたけど、まあ、世の中そんなものだと勉強になりました。

そして、1998年夏発売の雑誌「ユリイカ」の「怪談特集」で「黒沢監督と高橋洋さんが、どうしても鶴田さんに参加して欲しいと言ってます」と編集部から連絡があり、仕方なく鼎談に参加したのが決定打になって監督復帰することになり、そして現在に至りました。

その後、黒沢監督には『ドリームクルーズ』や『おろち』の劇場公開の応援でゲスト登壇してもらってますが、その時は、高橋洋さんがご一緒だったし、それ以外のイベントなどでは清水崇監督が一緒だったりしてました。

ですから、明日の『戦慄のリンク』トークショーは、黒沢監督と「初の差しトーク」になります。

私を最初に評価してくださったプロの映画人であり、最大の恩人でもある黒沢監督とそのような場を持つことになってメチャクチャにドキドキしてしまいますが、本当に貴重なトークになると思います。
明日は、是非ご来場を頂ければ幸いです。